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仕事終わりで急いで台東区立中央図書館へ。さいきん行きつけの古書店で浅草について書かれた古書を買ったら偶然、巻末付録に「ニコニコ遊園地」が記載されている大正時代の地図の複製が付いていて、ワタシ的にはココロ小躍りするぐらいには大発見であった。その余勢をかって、おととしで途中だった調べものの続きをしようか、と。 ニコニコ遊園地とは、関東大震災直前くらいに浅草十二階のとなりにあったよくわからない施設。浅草十二階を調べていて気になり始めた施設。 正確にはその地図には「ニコニコ遊園地」ではなく「ニコニコ園」とあるのだが、なにはとにかく、いままでニコニコ遊園地という記述は台東区の歴史を調査しているところで作成されたらしい六区周辺の移り変わりを示す略図のようなものの中でしか見たことがなくて、その略図を作成するにあたっていったい何を参照しているのか、一次資料は何なのかがわからなくて、まあ、この地図には「ニコニコ園」とあるからこれじたいを参照しているのではないことは確かだとは思うのだけれど、ニコニコなんとかという施設がまちがいなく存在していたらしいことの証拠に一歩近づけたという意味で、大きいことなのだ。 往時の浅草六区のにぎわいについて書かれた本はたくさん見たが、ホント、ニコニコ遊園地にはまったく触れていなくて、その場所にあった浅草国技館とか宮戸座は出てきても、みんなグルになってわざと知らんぷりしてるんじゃないかと思うぐらいに、どれもニコニコ遊園地には触れていなくて(ちなみにこの地図が付いていた本の本文にもまったく出てこない)、まあ、浅草十二階や富士山縦覧場やルナパークや電気館と違ってニコニコ遊園地は話題にもならないし(しかもGoogleでニコニコ遊園地を検索しようとすると動画のニコニコばかりが引っかかるという厄介さ)、それでも台東区の歴史を調査している部署とか江戸東京博物館に問い合わせたら一発でわかっちゃう程度のことなのかもしれなけど、もし一発でわかっちゃったらそれもなんだか悲しい気もするので、それは最後の手段に取っておくとしてもうちょっとわからないことを楽しんでいよう。 あ、話が逸れちゃったが、本日、月イチの館内整理日とかで図書館は休館日。台東区立中央図書館に限らずこいう事態はさんざっぱら懲りてるはずなのに、事前に休館日をチェックするということを忘れちゃう。ワタシのバカバカ。あんまりショック過ぎてせっかくだから夜の浅草をうろついて帰ろうとかいう気力すらない。あ、馬券売場の向かいの映画館街だったところにマルなんとかという企業が建てるビルの一角が浅草十二階を模したデザインになるとかどうとかいう話はどうなったんだろう? #
by fumi2324
| 2016-01-21 17:46
お神楽って面白いなぁとつくづく思う。画像はつい先日東京ドームでおこなわれたふるさと祭り東京2016での石見神楽の演目「おろち」(ヤマタノオロチ退治)。ナマで初めてしかもかぶりつきのような席でまじまじと見たのだけれど、噂に違わぬスペクタクル。8匹の文字通り大蛇がフォーメーションを組むみたいにいにポーズを決めたりするシーンとか、ドームの中の青森のハネトの衆とねぶたの山車が動き回るような広い特設ステージ(お祭り広場と呼んでいた)でお神楽ってどうなの?とちょっと不安でもあったのが、おおお、てな感じ。お神楽というよりもう歌舞伎とかあるいは京劇とかそんな感じにも思えて、もう、やんややんやの拍手喝采を送っていた。 かと思うと、去年そして今年の初め私の郷里で生まれて初めてナマで見た黒森神楽。黒森神楽の特色は何と言っても、今でも「巡業」するところ。残念ながら昔のように民家の中で舞うのは未だに見てないのだけれど、それでも去年の暮れの地元の公民館での舞納めと今年初めの神社での舞立ち、やはり公民館中庭でのシットギ舞込み、火伏せ、公民館の中での舞初め、そして家々を門付けして歩く門打ちと見たのだけれど、こう、舞い手と観客の距離がものすごく近いというのか、それはつまり巡業して歩くからであり、巡業先でお客さんを一晩楽しませなければいけないからであり、そこには国の重要無形民俗文化財でもある伝統芸能を伝承し披露しているのだといういわば啓蒙思想のようなものとはちょっと違う意味での非常にプロフェッショナルな意識があるのであり、神楽衆の中のスポークスマン役の方が(もちろん田舎の訛りばんばんで)ジョークを連発してお客さんを乗せたり、やはり演目の中にヤマタノオロチ退治があるのだけれど、それは石見神楽と全く違ってスペクタクルではなくて、大蛇役の人(大蛇は一人)が客席から乱入して何故か客席に飴のようなお菓子をばら蒔いてゆくのは、つまり、巡業という移動を伴いながら演じていく必要があるからなるだけ簡便な道具で見せる必要があるのでありやはり先にも述べたようにお客さんをノせる術が必要だからだ。 あるいはここに以前書いた花祭。去年も御園と東京で見たのだけれど、湯立てという、湯を沸かすためのかまどの周囲を舞うというそもそもの形態からなのだろうが、何というのか、盆踊りのようなものをも連想させる。一昼夜いろいろな演目を舞ううちに、(もう、本で読んだ別名「悪態まつり」のその様子どおり)酔っぱらったお客さんが舞庭(舞われる場所)に乱入しはじめる。この土地の出身者で以前舞ったことがあるらしい人が懐かしさのあまり、とか、よくはわからないが鬼にそれこそよくわからない悪態を一生懸命つくとか、朝方の湯囃しのころにはなんだか知らないがたくさんの人で湯の回りを舞っていたりとか、言ってみれば参加型のお神楽なのであり、私はお神楽の分類ってよくわからないのだけれど石見神楽や黒森神楽とはまただいぶ違った様相を示している。 おととし東京で見たものの中に隠岐の島前神楽があって、舞台上中央に木枠で囲った一角、結界がしつらえられる。畳8畳分ほどのスペースで、そこに囃方の方がコの字に座って中央3畳分ほどのスペースだけで舞が始まる。それはもうYouTubeで見るのと同じで、ああ一度現地で見てみたいなあ、と思う。あと一度ナマで見てみたいと思うものは、高知のいざなぎ流のお神楽。私は舞いのかたちで「ゆらゆら系」と分類しているのだけれど、これも不思議なお神楽。 話が黒森神楽に戻るのだけれど、黒森神楽で好きな演目は「山の神舞」(あんまり好きすぎて、ノートパソコンの壁紙が山の神舞いw)。どうして好きなのかと言われても困るのだけれど、妙に心惹かれるのは何故だろう。烏帽子の耳当てのような部分をしきりと手で跳ね上げる仕草が不思議だし、決めのポーズの時にものすごくチカラがこもっているようにぶるぶる震えているのも不思議。あと、舞い手が指に白い紙で作った飾りのある指輪をしていて、それはどんな意味があるのかも不思議。まあ私の郷里だし、たくさん見れるだけ見て調べてもみようと思う。 お神楽、私が好きになるポイントというのがあって、そのひとつは、音、音楽。花祭や島前神楽で途中で拍子が変わったり、黒森神楽の(何というのかわからないけれど)摺り鉦の音とか。門打ちに同行させてもらった時に何かした拍子に神楽衆さんからこの摺り鉦を渡されて、神楽衆さんのようにシャッカシャッカ鳴らしてみたのだけれど、これが思いの外重たくてうまくコントロールできない。とってもくやしかったけど良い思い出。 花祭を研究している団体に「東京花祭り」というところがあって、ここの特色は、いわば机上で研究するだけではなくて実際に舞いやお囃子を習得し東京でも花祭りを催すという、いわば実践的に研究する団体なのだけれど、去年秋から、私もここの会員にしていただくことにした。私は民俗学とか民俗芸能の勉強を正式にしたわけでもないチャラチャラしたヤツだが、それでもお神楽に興味が向かうまでの自分のバックボーンがあって(たとえば神輿がそうではないかと思うし、プログレもそうだと思うし)もしかしたら、だからこその私の立ち位置からユニークにお神楽の何かちょっとでも深いところに迫っていける可能性があるんじゃないかとも思ってもいて、まあ気の向くまま、興味のおもむくままこれからもお神楽を注視していきたいと思うのであーる。いつにも増してとりとめもない文章で失礼しました。おしまい。 #
by fumi2324
| 2016-01-18 19:53
先月中旬、群馬県桐生市で第3回煙突娘集会を開催しました。参加者はわたしを含め3人、秋に巌華園で会食した時と同じメンバです。 はじめモリムラ珈琲店でお茶しながら煙突娘煙突男について語り合い、その後、煙突娘の地・天神町へ移動。さらに今回のテーマである「カツ丼」にちなんで桐生風ソースカツ丼発祥の店という志多美屋本店さんで桐生風ソースカツ丼を食べ、解散。テーマを設定したり資料を用意したり、3回めにしてなんだかちょっと研究会っぽい感じになりかけているような、そんな気もしなくもありません。 そもそもな話、どうしてテーマが「カツ丼」だったかというと、1950年桐生で煙突娘がろう城している最中に差し入れられたものの中にカツ丼があるのですが、それ以前から桐生市には桐生風ソースカツ丼というものがあり、ではいったい煙突娘が煙突の上で食べたというカツ丼はこのソースカツ丼なのかそれとも普通の卵でとじたカツ丼なのか?という重大な疑問が持ち上がった(ま、今さらではありますが)、というわけなのです。その真相に迫るべく、まあ迫る前に、いや迫るも何も、この桐生風のソースカツ丼を一度も食べてなくて真相に迫るもへったくれもなかろう、と、まあ、そういうことなのです。 ちなみに桐生風ソースカツ丼は、どんぶりのごはんの上にソースがかかったカツがごろっと乗っているだけ。キャベツはなしです。 煙突娘が煙突上で食べたものがソースカツ丼であったか卵とじのカツ丼であったか、わたしは卵とじのカツ丼だったような気がして、というのも、そういう身体を張った闘争という切迫した状況で差し入れられるものとしてのカツ丼というチョイスには、当然のこととして「カツ=勝つ」という語呂あわせの意味が込められているはずで、そういう時に私がまっ先に思い浮かべるものは、やっぱり卵とじのカツ丼の方なのです(同様に、私にとってはやっぱり取調室で出されるカツ丼はソースカツ丼ではなく卵でとじたカツ丼、たとえ桐生の警察署であっても)。けれど今回も集会にご参加いただいたSさんなどはソースカツ丼の方ではないかというご意見なのだそうで、煙突娘が立て籠る煙突十数メートルの中段のところまでロープで吊り上げなければならないという状況から考えて、揺れて万が一傾いても汁がこぼれたりしないソースカツ丼だったと考える方が合理的なのではないか、ということらしいのです。考えてみれば、桐生の12月という時期、煙突娘の体のことを気遣って差し入れを考えるならば、冷えた時のことを計算に入れると汁がないものの方が煙突上で煙突娘がよりマシなものを食べることができる気がしますし、とするとやっぱりソースカツ丼なのかなあ、と考え直したりもしています。 志多美屋本店さんのソースカツ丼はホント美味しくて、何と言ってもソースが絶品。あのソースなら私はソースごはんで3杯いける!ごはんの上にごろっとカツ、それだけ、っていう見た目のぶっきらぼうさとは裏腹に、なんだかこうラブリーなお味なのです。つまりその見た目とお味は、まさかこういう若者言葉をこんなにも実感込めて使う日が来ようとは思ってもみませんでしたが、いわゆる「ツンデレ」なのではないでしょうか。 志多美屋本店さんに行くまで、私は、古い古いお店で老境にさしかかったおじさんおばさんが二人きりで切り盛りして(しかもおじさんは白衣を着ていておばさんは三角巾を被っている)いるような、言っみれば「男はつらいよ」のとらやを勝手に想像していたのですが、わりと新しくて綺麗なお店で若いスタッフさんたちが忙しく動き回っているようなところでした。夜の部スタートにあわせて行ったのですが次から次へとお客さんが。空席待ちの方もいらっしゃるようでした。 煙突娘集会にはお初のOさんには早速非常に有効なサゼスチョンをいただき、(詳しくは書きませんが)煙突娘騒動の舞台になった桐生ゴム工業をビジュアル的に把握できる手立てを教えていただきました(というのも絵的な資料が当時の新聞記事の不鮮明な写真しかないので)。これについては近い将来ご報告できる日がやって来ると思います。乞うご期待。 余談ですが桐生の名物料理といえばもうひとつ、ひもかわうどんですが、石見神楽看たさで行ったふるさと祭り東京(於東京ドーム)で食べることができました。出店していたお店は桐生ではなく館林のお店だったのですが、これが予想を越えて美味しいものでした。少ない汁にひもかわ、上にはお肉と玉子の黄身が乗っていてまぜまぜして食べるスタイル。ひもかわうどんのあの平べったい、平べった過ぎるあの麺はどうなの?と正直恐る恐るだったのですが、なんだろう、汁や玉子に絡んだ麺も美味しくて、いつか館林に寄ってここのお店のもまた食べたい、桐生でも食べてみたい。ひょんなことから何度となく通うようになった桐生足利ですが、あのへん、またひとつ楽しみができてしまいました。おしまい。 追記:ひもかわうどんのお店を出店してらしたのは花山うどんさんです。 #
by fumi2324
| 2016-01-17 18:58
8月の半ばに父が突然他界した。その前月末に倒れて県立病院に入院、そろそろリハビリに特化した病院へ転院することを考えた方がいいと医師から説明があった矢先のことで、前日までベッドの上の父となにはとにかく会話していたのに、だった。私の郷里は津波被災地だが、そんなことを引き合いに出すまでもなく世間には私なんかよりはるかに大切な人との「なぜ」というような別れをした人はざらにいるのだろうし、そのうちどうにかした拍子に目を覚ましそうで一晩中名前を呼んで過ごしたこととか遺骨を前にして思ったこととか、集まった親戚がそろって口にするうちの父の思い出や人物評のなんだか妙なそらぞらしさとか葬儀屋の人が言った父の49日間の旅のこととか、そんなことを書きつらねても自分の年齢不相応の幼さを晒すだけなのかもしれない。けれどたんに悲しみだけではない悲しみとごっちゃになったたぶん近親者それも親子だから湧いてくるうまく言葉にできない気持ちとか悲しみのかたちは、他人とは深浅や優劣は比較できないという意味で、私は私の事情が許す限り自分のそういう感情に沈潜する、変な言い方だが言ってみれば権利があるのだ。 そんなことを思ってもみるのだけれど、やっぱり私にはこのブログには書けなくて、もうすこし時間が経ったらもうちょっと心の整理がついて何かもっと上手なかたちでうまく書けるようになるんだろうか。 私が選んだ遺影写真の父がすごく良い表情をしていると親戚みんなが口を揃える。その写真は10年前私が撮ったものだったが、そもそもあの時どうして父は私の前でこんなにいい笑顔をしたんだろう?とふと思う。母が撮った父はどれも皮肉屋みたいな笑顔なのに。 #
by fumi2324
| 2015-10-15 20:26
この時期、私は例年ならちょっと空虚な時期というか。6月後半から7月というのは神輿の前半戦が終わって、つまり字義どおり祭りの後で、それまでにどこかで花菖蒲が見れていればよし、見に行けていない年には後悔とちょっとした敗北感みたいなものの中にいるのが常で、あるいは町のそこここの紫陽花のうちにちらほら見えてきた色褪せて萎れた花に一年でいちばん好きな季節であるはずの梅雨がやがて青空にどっかんと入道雲の祝砲を上げるみたいに終わってしまうことに危機感を感じて雨の季節を味わう余裕さえなくなり、まあそんな感じで過ぎて行くのだけれど、今年のこの時期はなにかと気忙しくもある。 というのも、富士塚めぐり関連、この時期にあちこちの富士塚やら浅間神社でお山開きやお祭りなどの行事が集中しているからだ。 ここでいうお山開きというのはつまり旧暦六月朔日の富士山のお山開きを模したお祭りのことを言っているわけで、その旧暦六月朔日を新暦に移すのに6月1日としているところや7月1日としているところ、しかも前後の日を含んだ連続する複数日としているところ、あるいはそれに近い日曜日をあてたりしているところなどがあるらしい。 ちなみに手元の暦を引いてみると今年の旧暦六月朔日は新暦では7月16日の木曜日で、7月後半といえばもうすぐ梅雨明けという時期、この季節のずれは頭に入れておくべきなんじゃないだろうか、とちょっと思ったりもする。 お山開きについては私の好きな文章があって、それは富士信仰の研究に大きな功績を残した岩科小一郎さんの文章。 信仰の山はいわゆる禁断の山で、関係者以外の立入りはゆるされない、強いて入山すれば天狗に掴まれて八ツ裂きにされると脅かされるのであった。(略)。近頃の人たちは山開きというと、海開きなどという新造語とともに、山や海のレジャー施設の準備が整った知らせのように考えているらしいが、これは大きな間違いである。山開きは山の結界が解かれ、山頂の神仏と俗人との対面がゆるされることである。 (「山の民俗」岩科小一郎、岩崎美術社、民俗民芸叢書34、1968より) 奇しくも富士塚にかんしては、文化財に指定されるなどして普段は保存のために立ち入り禁止となっているところが、このお山開きの日に限り登れる、というところもあり、理由が全く違うにせよ、結果的に岩科さんのいう山開きの意味にちょっと似たようなことになってもいるのが、なんだか面白い。 話が横道に逸れてしまったけれど、そういうわけでこの本当ならちょっと気の抜けたような季節がなんだか慌ただく過ごせている。なにしろ行ったことのないお祭り(お山開き)だらけのところへもってきて日にちが集中しているので、どのお祭りを見に行ったらよいかが思案のしどころたからだ(あともちろんその前にその日のスケジュールを空けることもだが)。 そのお山開きのひとつ、6月1日には足利市浅間山のペタンコ祭りに行ってきた。お山開きのなかでも初山行事と呼ばれるもので、0歳児の健康と幸運を願う意味を込めて赤ちゃんの額に浅間神社のご朱印を捺印する行事。そのご朱印をぺたんと押す様子からペタンコ祭りなのだ。 標高108メートルの浅間山山頂にある上浅間神社はべつに男浅間とよばれ、いわば男の子向け、男の子に男の子用のご朱印をペタンと押してくれる。そこから一旦下って、大田方面へと続く東武伊勢崎線の線路と道路を越えて一般道を150メートルくらい、渡良瀬橋近くに女浅間とも呼ばれる下浅間神社があり、やはり女の子用のご朱印をペタンと押してくれる。 とまあ、そういうことらしいのだが、群馬県足利市、一般道から浅間山への登り口じたいが既に30メートルくらいの標高のところにあるらしいので、高さは差し引き70メートルくらい。ただ案内板によると、登山道は頂上まで長さが450メートルあるらしく、その450メートルが山の斜面をつづら折りになった登山道の、私のいるところのひとつもふたつも上の階層の道を登っていくたくさんの人たちの列(そのほとんどが親子連れなわけだが)を見ていると、みんなが富士の行者で、私までもが富士の行者になったようなそんな気分にもなる。それから、よくはわからないが、ご朱印を押してもらえるのは0歳児に限った話ではないみたいだし(何歳までかは知らないが歩ける子も少なくなかったし、けどまあだからと言ってそんなに大きな子もいなかったが)、それと2つの浅間神社、性別によって押してもらえるもらえないとか、そういうのはなくどちらでも押してはもらえていたようでもあり、ただ、いただいたペタンコ祭りのパンフレットにはその男女の区別はもちろん記載されているのだが。 ちなみに足利のこの浅間山にはピークが2つあり、上浅間神社ではない方のピークの頂上には山頂石尊宮という石の祠があり、そちらに行く途中の道を少し下ったところに、この浅間山の有名な胎内洞穴がある。胎内洞穴の方には行きやすいのだけど山頂石尊宮のある方の山頂へは道が整備されていなくてけっこうたいへんだった。 当日は良いお天気だったこともありちいさなお子さんを連れた家族がたくさん。とくに小さな子のおじいちゃんおばあちゃんも一緒というグループを多く見かけた。山頂の浅間神社の周りが展望台のようになっていて渡良瀬川の向こうに織姫神社や足利市の旧市街地が見え、高さがたかだか70メートル程度とは思えない見晴らしにとっても気分が良い。登った人のブログを見ると赤城山も見えると書いてあって、確認するんだったと後悔。 話はまたペタンコ祭りの様子に戻るのだけど、赤ちゃんがお母さんに抱え上げられて神社の方にご朱印を押してもらってる様子というのは、まるで種痘とか注射とかの接種の光景。私が見たうちには一人も泣き出す子はいなかったのが不思議なくらいで、私が赤ちゃんならぜったい泣いていると思う。 私はご朱印をいただくことはできないので、浅間神社のお守りとペタンコ祭り名物の団扇をいただき、知らない親子連れにお願いしてご朱印のついた赤ちゃんのお顔を撮らせていただく。 下浅間神社の方は、先にも書いたように渡良瀬橋のところ、やはり山のようにはなっているのだけれど道路から10メートルないくらいの高さのところにあるお社。 浅間山の登り口近くと下浅間神社近くには祭りらしく露店が合わせて15軒くらい出ているのだけれど、お祭りにやって来るのは小さい子どもを伴った人ばかりのせいか、どこも暇そうだった。 そして6月中旬には文京区・白山神社のあじさい祭りへ。白山神社にある富士塚・白山富士がこのあじさい祭りの期間だけ登れるのだ。あじさい祭りというだけあって、たくさんのしかもとりどりの紫陽花はどれも発色が良くてキレイ。カメラを抱えた人もたくさん。・・・あ、話が長くなるのでこのことについてはまたいずれ。 画像は6月28日、浅草富士浅間神社の植木市にて、神社でいただいた「麦藁蛇」。麦藁蛇は「むぎわらへび」ではなく「むぎわらじゃ」と読むのが正しいらしい。一緒にいただいた解説には、この麦藁蛇は宝永年間に駒込の農民・喜八という人が夢のお告げにより考案し広めた、とあるので、駒込の富士神社の麦藁蛇とルーツは一緒ということなのだろうが、 やはり麦藁蛇のようなものがある足利・浅間神社のペタンコ祭りのパンフを見ると、足利での疫病流行と大雨・洪水という災厄を(足利・浅間山の)浅間様のお使いと思しき竜が鎮めたとされる故事から、「麦わら竜」がお守札として作られるようになった、とのことで、浅草のもの足利のものどちらも浅間様であり富士信仰が関係していてしかも疫病除けなどとされているのに、作られるに至った経緯が違っていることが面白い(ちなみに足利の麦わら竜の方は頒布はされていないみたいで、足利市歴史資料室(正確な名称を忘れてしまい間違ってたらごめんなさい)の展示品のうちに実物を見ただけである)。 #
by fumi2324
| 2015-06-30 06:22
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