ブログパーツ
カテゴリ
タグ
日々のつれづれ(150)
その他(102) わたし(77) 恋(66) 音楽(61) 記憶(51) 311、放射能汚染(44) 煙突娘(42) 神輿(18) 美術・アート(10) 代田橋(8) 紫陽花(7) くちづけ(4) 備忘録(1) 夢(1) 最新のトラックバック
最新の記事
以前の記事
2017年 08月 2016年 08月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 10月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 08月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 フォロー中のブログ
外部リンク
ライフログ
検索
links
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
→韓国の煙突男 そうそう、忘れてました。ネットで見つけたこの話。韓国の煙突男。画像付きなので、日本の煙突男に思いを馳せるには良いかもしれません。 韓国では労働組合の力が強く今でも激烈な労働争議が繰り広げらているらしいという話を聞きますから、さもありなん、という感じではありますが、しかしよりによって300日とは、日本の煙突男とはあまりにも桁違いで真偽を疑ってしまうほどです。 リンク先のスレの中で日本の煙突男に触れたコメントがあるので、それについて書いておきます。 日本の煙突男で昭和5年(1930年)というのは、言わずと知れた初代煙突男・田辺潔の「川崎の煙突男騒動」のことです。お召し列車の通過といういわば非常事態に会社側が折れて解決というなんとも劇的な結末をみたのと、 昭和25年の桐生の煙突娘を含む全煙突ろう城騒動の中では唯一、映画化までされてもてはやされたこと、そしてろう城した田辺潔がのちに不審死を遂げていることなど「ザ・煙突男」という感じではあります。 しかし煙突男はこれだけではなく、この後何回か歴史に登場することとなります。なので、昭和5年のこの煙突男騒動と隣国のいまのそれを比較するのはちょっと違うように思います。 私が知る中で最後の煙突男は1963年、北区の清掃工場の煙突に上がった煙突男。ただしこれは労働争議が原因ではなく、韓国の煙突男と比較しようとするならば争議に限定し1948年東宝の争議に出現した煙突男をまず挙げるべきではないでしょうか。 →東宝争議(wikipedia) ただこの東宝争議の場合、争議といっても占領下にあって思想的な背景が大きかったようですし、韓国のそれのように原因をもっと労働環境ということに狭めていくとすれば、比較すべきはもしかしたら1950年桐生の煙突娘騒動かもしれません。 日本の煙突ろう城が1960年代で廃れてしまった理由とか、日本のそれには労働争議が原因だったことが意外に少ないこととか、往年の学生運動で大学の時計台というランドマークが占拠されたことと煙突男との類似とか、韓国の煙突ろう城騒動のルーツがどこにあるのかとか歴史とか、気になる点はいくつかあります。 それはそうと韓国の300日煙突男、記事は今年3月ですが、今現在の様子を知りたいものです。記事には、あまり人々の関心を惹いていない、と書かれていますが、いったいどこに落としどころを見つけるつもりなのでしょう。続報が気になります。 (画像は全く関係なく、笹塚に4月にオープンしたオサレなビル) #
by fumi2324
| 2015-05-04 06:13
| 雑文
最近たまに行くようになったラーメン屋さんにある日行ったら、おじさんとおばさんが何やらケンカ中。出てきたラーメンの、麺はいつもより固く煮玉子が普通のゆで玉子になってる。おじさんが普段からちょっとおこりんぼさんなのは知っていたがそれに負けず劣らずおばさんも実力行使をする人らしく、この時はとうとう奥にひっこんだまましばらく出てこなくなった。ラーメンは美味しいのだがたまに雰囲気が悪いのがこの店の悪いところ。 ところでこの前の日曜日、足立区花畑にある花畑浅間神社に行く。途中、西新井駅の下りホームにある立ち食いラーメンを初めて食べる。 このラーメンを食べていて思い出したのは、むかしむかし実家近くにあった中華料理店のラーメン。私が小学校の高学年くらいの頃にそのお店はあって、従妹とかが遊びに来るとうちのおばあちゃんが決まってお昼にそこの中華屋さんのラーメン(の出前)を取ろうと言う。たぶんうちから50メートルと離れていないのに麺はなんだかいつも伸びていて、一歩間違うと麺が麺ではなくてひとかたまりの小麦粉団子になりそうな感じで、スープも変に特徴のある味であまり美味しくなくて、なのにいつも頼むのはラーメンで、茶の間のテーブルの上で、運ばれてきたラーメンの丼の上を覆っているラップを留めているゴムとともに外して熱いラップが水分を含んでくしゅくしゅになっていくさまを眺めながら今から食べようとするラーメンの味を早くも口の中が迎撃体制でシミュレートしていて、妙にこの時だけ黙々と食べながら、最後には「やっぱり美味しくないね」っていうのがおばあちゃんの決まり文句だったような気がする。そこのメニューがうちにあったはずなのに、他の料理も出前を取れたはずなのに、ラーメン以外出前を取った記憶がない。 誤解のないように書いておくが、私は別に西新井駅のラーメンを美味しくないと言っているのではなくて、ナルトがきちんと鎮座ましましていたりチャーシューがむしろ焼豚といった感じになつかしい歯応えがあったり、スープの味もたとえば○高屋なんかで食べるラーメンとは明らかに違う部分、それも「なつかし細胞を刺激する領域」のスペクトルに反応が出ていたり、なーんか郷愁誘う味で、ここから先を強調しておきたいのだけれど、実家から50メートルのその記憶の中のラーメンより確実に美味しいし、駅のホーム、今風に囲われて自動ドアを入るでもない言ってみれば昔ながらに野ざらしの立ち食いラーメン屋さんは、それだけで一度食べてみる価値がある場所であった。 くどくど書いてきたが、話したいのはここから先で、このブログにも何度か登場している富士信仰研究者さんが私に、どういう話の流れかはもう忘れてしまったけれど、そもそもこの西新井駅のこの立ち食いラーメンを教えてくれたわのである。私はこの研究者さんにいくばくかの月謝を払わないとマズいんじゃないかとしばしば思うほどに大切なことを日々、ツイッタで教えていただいていて、それは私のわからないこと(まあその多くは本に書いてあるのにきちんと読んでいないがために起こる疑問だったり、ただただ漠然とした疑問だったりするのだが)、あるいは時には言ってみれば学問ということだったり研究姿勢ということだったりということで、だからその研究者さんの口から出た、というかツイートとして吐き出された言葉の中にあったこの西新井駅の下りホームの立ち食いラーメンというものの存在は私の脳内の富士信仰フォルダに収納されて、それは今後行ってみるべき富士塚と同じ扱いで、神輿担ぎに行ったら酒を飲むとか西新井大師にお詣りに行ったら草団子を食べる、ということ以上に、私の脳内では富士信仰というものと不可分なものになってしまっていたのだ。 だから、いつだったか西新井に来る用事があった絶好のチャンスのその時に、ちょうど踏み切り事故だかで長い時間電車が止まってしまった時の私はひどく落胆して、ついにコノハナサクヤヒメは我を見棄ててしまったか!ぐらいにショックを味わったものだ。 ちなみにやっと西新井駅のラーメンを食べられたこの日、私は押上のたばこと塩の博物館を見たあと、足立区花畑の花畑浅間神社、通称野良浅間ともいう花又富士を見に谷津駅まで行く途中、西新井駅で途中下車したというわけだ。 谷津駅あたりは埼玉県草加市。駅前から南北に伸びる道は昔の幹線道路といった風情で、あとで調べてみたら日光街道と判明しさもありなん。それを南へ下って、花畑浅間神社は毛長川の南岸にある。毛長川をはさんで埼玉県と東京都なんだろうか、してみれば毛長川の向こうに見える「ひよこ」の工場は埼玉県なんだなあなどと思いながら毛長川南岸を東進する。 ちょうど毛長川に沿って横長に作られた毛長公園が途切れたあたりに、その野良浅間はあった。小さな駐車場の奥に見える塚は川の方から見ると背であり、回り込むように参道がある。富士塚のあたりは余計な枝が刈られて整備されている様子がわかる。鳥居をくぐり塚の近くに行こうとすると刈られた枝の一本をくわえたカラスが私の様子を伺っているのかおどけたみたいに2、3度跳ねてから声をたててばたばたと飛び立つ。塚の高さは3メートルくらいだろうか。 50センチほど盛った土の上にぐるりと背の低い石の柵があり、そこの中央に鎮座している。正面の登山道左側には「丸に参」のマークの入った板碑、右側には花又講社と書かれた板碑。最初に周りをぐるりと歩いてみると、正面以外、後ろ側に2ヶ所登山道がある。また正面に戻りいよいよ登拝。お賽銭をあげてお詣り、裏側の登山道に降りようかと思ったが恐くて降りられずもとの正面を引き返す。 正しいかどうかはわからないが、あちこちに塚まで作っちゃうような富士信仰というか富士講の人々のこうしたエネルギー、言い方は悪いかもしれないがある種の熱狂を、私は心のどこかでわりと身近なものとしても感じてもいて、それは私がその熱狂の質を神輿担ぎから類推しているからだ。うまく言えないが神輿担ぎに似た空気をすこし感じるのだ。この春に見た練馬の歴史資料館の富士信仰に関する展覧会で、富士山に登拝する講社の人の持ち物のなかに、千社札とそれを貼る道具を入れた木箱があり、神輿担ぎに似た熱狂という思いにたいする確信を強くしたのだった。 花又富士はデコレーションのあまりない、造った人のセンスを感じるプロポーションの良い富士塚であった。神社の境内といったようなロケーションでもないのに(野良浅間という愛称の由来はここからか)よく破壊されずに残ったものだ、と思うとちょっといとおしさも湧いてきたり。 (画像は西新井駅のラーメンにしちゃいましたが、花又富士のビジュアルについては下記のリンク先をご参照ください。) →花畑浅間神社 →芙蓉庵~有坂蓉子の富士塚日記「花又富士」 追記(2015.04.29 22:34)。 谷塚駅から日光街道に出たところに瀬崎浅間神社というところがあり、お賽銭箱に富士講の講紋がばっちり入っていたり、富士講に関係の深い神社のようです。駅から近いしオススメです。 #
by fumi2324
| 2015-04-29 20:36
| 雑文
前記事「足利桜道紀行」の続き、後編である。 前に書いた樺崎八幡宮にいた時からすでに雨が降ったり止んだりしはじめて、午後2時くらいだろうか、門田稲荷の境内に掛けられたたくさんの数の縁切りの絵馬を見た頃には、いよいよという感じに雨は降り始めていた。 Oさんのお話によれば、縁切りと言っても門田稲荷のそれは若干ニュアンスが違うのだそうで、本来は病気との縁が切れますようにとか、男女の色恋というよりむしろ悪い運気とかを断ち切るという意味があるのだそうで、まあ、もはや悪い気しか運んでこない男ときれいさっばり別れたい、っていうのも間違いではないにしても、言ってみれば「応用範囲の広い」縁切り、なのだ、ということだ。 まだ時間が早いけれどどうしますか?と聞かれて「実は……」とバッグの中から地図のコピーを取り出した私を、Oさんはどう思ったろうか。なにしろちょっと市街地からだいぶ離れた、しかもたまたま地図にマークしてあったというだけの「富士嶽神社」というところなのだ。 名前からするともちろん何らかの富士信仰関連の場所である「はず」なのだが、Oさんもご存知なく、どんなところなのかはそこに行ってみないとわからない。もしかしたら荒れ果てて小さな祠がぽつんとあるだけでそれが本当に探している富士嶽神社かどうかもわからないかもしれないし、ちょっと立ち入れない私有地の中にあり、結局見つけられないかもしれない。しかも、しかもただ地図で見つけて名前が気になったというだけの、そもそもかもその程度のモチベーションなのだ。助手席に乗ってるだけの私はいいが、そんな話を聞かされて運転している人の気持ちはいかばかりか。 そんな言ってみればすごくいい加減な話にもかかわらず、Oさんは「面白そうですね、行ってみましょう」と言って私の地図とにらめっこしてカーナビに入力すると車を走らす。市街地からは里山の尾根ひとつ桐生側へ越えた地区で、いったん奥地?へ向かって峠を越える。 山を越え、市道だろうか県道だろうか、片側一車線の幹線道路に出てしばらくすると、前から車が来たらすれ違うのにも苦労するような農道へ入る。この辺みたいですね、と言われて降りた場所は、里山の、雑木林に囲まれてちいさく土や岩がむき出しになった斜面に、荒れ果ててコンクリート造の祠が2つ3つばかり、石碑が10基近く固まっている。何という名前の祠かわからず、石碑もみんな庚申のものであるみたい。 話はちょっと横道に逸れるのだけれど、富士信仰のこと──私がネット上でいろいろ教えていただいている研究者さんの用語を借りると角行系富士信仰──を調べたり、そうそう、あるいは去年ある博物館の講座で荒神信仰のことを学んだりして、それまでは視野にすら入らなかった小さな祠も大きな神社とわりと同様に眺めることができるようになって、それは私にとって大きな収穫だと思ってる。私にとってそもそも神社とのお付き合のきっかけが神輿だから、今までは、禰宜さんがちゃんといるような神社じゃないと神社じゃない、みたいな思いが無意識にあったんだろうと思う。前に記事にしたけれど去年の暮れに桐生に行ったとき里山歩きをして、山のてっぺんに荒神さまなのだという石の祠を見つけて、昔の人はこんな峰ともいえない他愛のない山のてっぺんにも何かの理由で神さまを見ていたというか祀らずにはいられなかったわけで、私が神輿を担いでる三社祭の浅草神社も神田明神も立派ですごいが、それとは全く別にしかも優劣なんてつけられないほど、こういった何でもないような石の祠もいとおしい。この気持ち、感覚って私の中ではちょっと革命的というか、この年にして世界を見る目がちょっと変わった気がする。 話は戻るけど、そのうち、どうもここは違うんじゃないか、ということになる。地図とこの場所を較べてみると、農道の入り組み方が違うのだ。そのくらい目印になる場所がなにもない場所で、山の上の方にあるお寺と霊園、それだけだ。 またしばらく行くと「富士山が見える丘」といった内容のまだわりと新しい立看板のある場所に着く。どうやらこの先らしく、車を降りてその道を行ってみると左手に鳥居があり「富士嶽神社」とあるではないか。 地区の集会所のようなプレハブの建物があり、中を覗くと山の斜面方向に向かって祭壇がある。建物の裏側に回ると、外、ちょうどその祭壇の先にあたる場所に小さな祠があり台座の部分に「中社講」と彫られている。 Oさんが近くで農作業していた男性に聞いてくださったところによると、このへんにあった富士講が富士山登拝記念に作った神社なのだそうで、看板にあったように山の頂上から遠く富士山を遥拝することができたのだとして、当時の人──ただまあ、当時といってもいつ頃の話なのかよくわからないし、鉄道が敷設される前と後ではこの神社にたいする見方がちょっと変わってくる気もするのだけれど──の富士山登拝への思いが伝わってくる気がした。 看板が立っているくらいなので、この神社の上の方に今でも富士山を遥かに眺めることのできる場所があり、地域のいくばくかの人が、地域外の人をそこに呼び込みたい気持ちがあるわけだ。この機会に地元の郷土史家さんや民俗研究者さんを巻き込んで中社講とその活動にもスポットか当たれば良いのに。 雨がいよいよ本降りになってきて、富士嶽神社を後にしてOさんオススメの喫茶店でお茶する。雨のせいかお客さんは誰もいなくて、店内、どこもかしこも磨かれた黒い木の、私とOさんはグレーの光が射し込む窓辺の四人がけの席に、まるで濃い陰影の支配する油絵みたいにぴったり収まる。こういうとき女性らしい気の利いたしかもキュートな会話ができればいいのだが、私は博識のOさんに話したいことがたくさんあって、とにかく話したくて、仕方ない。 いつかワインが飲めるようになってOさんオススメのワイナリーに行きたいものだが、さて。 (Oさん、本当にありがとうございました!) #
by fumi2324
| 2015-04-28 01:12
| 雑文
4月19日、足利市に行く。足利は2度めでやはり今年の2月──あっそうそう、前の記事に書いたその時──以来。「また桜の頃に行けたらいいな」っていうそのことをツイッタで呟いたら、足利市在住のフォロワさん、Oさんが案内して下さるとのことで、ご厚意に甘えまくりのかたちで実現しちゃったわけだ。 この日、件の桜──まあ、私の早とちりで、実は地元の保存会のようなところが桜の木を植えてまだ何年も経っていないらしくそもそもまだまだお花見をするという感じではない、とOさんからは聞かされていたわけ。しかも4月も半ばを過ぎて、ことし都内は開花が早かったしそもそも時期的にどうなんだろう?と心配もしていたのだけれど、その点は全く問題なくて、その長途路川の幼い桜の木もそうだけど、Oさんに連れて行っていただいた市街地の何という川だろう、ちいさな川の両側、枝垂桜がまるで豊満な姿態のお姉さんのように見事に咲いていた──ほかに連れて行っていただいた足利学校、鑁阿寺、織姫神社なんていう足利の "鉄板" の観光名所は、おそらく王道を避けちゃうクセのある私ひとりだとぜったい行くことななかっただろうし、「日本三大縁切り」のひとつ門田稲荷神社なんていうところにも連れて行ってもらって、そうそう、どうしてそこに行くことになったかというと、織姫神社で美少女キャラが描かれた絵馬が二種類あるという話をOさんがしだして、(名前も教えていただいたのだけど思い出せないのだか)ひとつは織姫神社のキャラ、もうひとつは門田稲荷のキャラで、門田稲荷のキャラの方は縁切りだけあって色づかいがちょっとダークなのだ、ということから始まって、織姫神社のを見たからには門田稲荷のそれも見なければ…ということになったのだ。三大縁切りというのがどのくらいポピュラーなのかは知らないが、私の当初の目的だった長途路川の角行さんの桜よりもはるかに観光というにはマニアな場所ではないだろうか。 そんな具合でほんとに色々なところを車で案内していただいて、しかも地元の歴史に詳しいOさんの解説は非常に楽しかった。私がワインを飲めさえしたらOさんオススメのワイナリーにも行ってみたかったところなんだけれど、ワインが苦手なところへもってきて、前の晩というか当日朝まで友だちと飲んでいて足利まで来る途中も何度か電車を降りておトイレに駆け込んで…を繰り返したコンディションでは、如何ともし難い。 で、だ。 最初に私のリクエストで連れて行ってもらったのは、樺崎八幡宮。 前の記事に書いた富士講というか富士信仰にかんする展覧会の解説ボードの "立体曼荼羅" という言葉がずっと気になっていて、その構成要素である、前回行った3つの仙元宮、渡良瀬川の向こうの男浅間・女浅間、それから大月町の里山の頂上の日月神社、そしてこの樺崎八幡宮、その中でも樺崎八幡宮だけが(富士信仰との関係が)なんだかよくわからなくて、一度行ってみたかったのだし、その何かちょっと怪しげな "立体曼荼羅" というそのイメージを、少しでも感得?できたらなあ、という思いもアリ……。 バイパスから枝分かれして樺崎地区に入ると閉めきった車内にまで何やらお囃子の音が聞こえてくる。やがて里山左手、中腹に建つお社に続く石段はずっと向こう、バイパスから枝分かれして、左右ののどかな里山が少しずつ近付いてくる平地の奥へと続く道路沿い、入り口に大きな大きな幟が見えて、誘導されるまままだ三割がたも埋まっていない広い駐車場のなかに車は停まる。私は勝手に、山間の厳しい地形の中にあるお社を想像していたので、なんだかすごく意外な感じがする。 石段を上ると拝殿、右手にはテントが何棟か建って、焼鳥だの焼そばだの、地元の方が食べ物の露店を出している。その先、社殿からなんだか間延びしたような空間を隔ててすこし奥に立派な神楽殿がありお神楽もおこなわれている。Oさんの話によると有名なお神楽なのだそうで、初めて樺崎八幡宮に来てたまたまお神楽も見れるというのは相当にラッキーなことらしい。「お神楽見物をする時は飲み食いしながら」っていうのは去年学んだことだけれど、焼鳥も焼そばも食べられるコンディションではなく、社殿をはさんで反対側に野点の席が設けられているのを見つけてOさんと一緒にお抹茶をいただく。 野点の席の先からは大きな池を含む広い庭園だったらしい遺跡を見下ろせる。たしかOさんも話していたけど、平泉の毛越寺の庭園を思い出すような広さ。 "立体曼荼羅" は……うーん。日月神社に行くのは無理そうだけれど、ペタンコ祭の時にでも男浅間のある浅間山へ行ってまた思いを馳せてみよう。……あっ、そんなことより何より先に、私はそもそも曼荼羅というものをあまり理解していないのであった。 来年、また同じ日に足利に来て、また長途路川の若い桜を、そして樺崎八幡宮のお神楽をじっくり見たいなあ。 そして「足利桜道紀行」は後半へと続くのであった……。 →国指定史跡「樺崎寺跡」(足利市のサイト) #
by fumi2324
| 2015-04-26 22:48
| 雑文
「足利の富士講 秘巻の霊統」展を見に足利市の栃木県立足利図書館へ行く。足利で降りたのは初めて。 何だろう、うまく言えないのだけれど、良い展覧会だった。良かったと思える理由は何なんたろうとずっと考えていたのだけど、それはたぶん秘境的な香りがきちんと匂い立ってくるような気がしたところなんじゃないかと思う。新発見という文書類もそうだけど、ちいさなコノハナサクヤヒメの像とかその厨子とか、もちろん私が言っているのはその資料的価値のことというよりなんだかよくわからないけど「おおっ」と思える何かということで、まあ私の不勉強、感性の欠乏と言ってしまえばそれまでだが、そういう出会いはなかなかないししかも心の中で色褪せていくスピードったらない。 図書館から出て、地図とにらめっこしながら市内大月町、その先の樺崎町というあたりにあるお宮を3つ、探しに行く。お天気も良いしなんだかすごくのどかな風景の場所で、歩きづめでくたびれはしたものの、うちひとつは自力で見つけ、ひとつは近くの農家の方に道案内までしていただいて教えていただき、ひとつはそこに行きはしたものの探しているお宮だとは特定できず、あとでそこがそうだったのだと研究者さんからネット経由で教えていただいて、という具合いに人の手助けがあり回って来れたのだった。ありがとうございました。 その風景の良いところを流れている長途路川の土手は桜の名所でもあるのだそうで(しかも富士講につながる富士信仰の開祖・角行さんゆかりの一本の桜の木に端を発するということらしい)、桜の頃にまた行けたらいいな…と思う。 #
by fumi2324
| 2015-03-01 04:37
| 雑文
|
ファン申請 |
||