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12月2日の火曜日、群馬県桐生市で煙突娘集会を開催するついでに常祇稲荷神社に祀ってあるという添田唖蝉坊ゆかりの竹次郎稲荷の石碑を見てくる。去年もほぼ同じ頃にやはり煙突娘集会をするのに同地を訪れたが、去年と違って、貸し自転車を漕いで前に進むのも難儀するほどの赤城おろしに吹かれた日であった。 竹次郎稲荷は金山竹次郎稲荷といい、もとは桐生市水道山下の傾斜地にある大川美術館の下の辺りにあったらしい。1990年に桐生タイムス社から発行された「桐生彩時記─人/できごと/暦」(以下「彩時記」)の記事「4月16日 唖蝉坊と竹次郎稲荷」によると、少なくともこの記事が書かれた当時は大川美術館の下の辺り、記事中には 西幼稚園裏の水道山傾斜地の閑静な住宅地内(小曽根3-58)にある。(「彩時記」) とあり、平成の初めまで竹次郎稲荷は普通に社として存在していたことがわかる。実は私は3年前から煙突娘の件で何度か桐生を訪れたうちの一度、この記事を頼りに金山竹次郎稲荷を探したことがあって、駅の貸し自転車でこの周辺をさんざん行ったり来たりした挙げ句もちろん見つけられずに、あとでわが煙突娘研究会顧問の砂女さんのブログの記事で大川美術館の拡張に伴い竹次郎稲荷は大川美術館の敷地の一部となりなくなってしまった、ということを知り、ああ調べるとか人に聞くって大切なんだなあ、という教訓をあらためて得て、その後まほろばさんの神社仏閣史跡巡りブログで常祇稲荷神社に辿り着くのである。 「彩時記」によれば、金山竹次郎稲荷は大正8年8月に京都の伏見稲荷からの分け御霊を祀ったものだが社名の由来など不明な点が多く、また、このころ40歳前半の唖蝉坊は1923年の関東大震災がきっかけで内省に傾き、岐阜に移るまで約2年間、この神社の社殿と社務所兼用だった建物に住み着いていたそうで、そこを「天竜居」と名付け、演歌師はせず(一度だけ前橋で講演会を開いた)、「米食を廃して松葉を食べ」「正相正体を念じ」暮らしていた、ということらしい。 311あとの社会の空気あるいは自分のことを考えても、震災を目の当たりにして内省に傾くのは理解できるし、むかし(と言ってもわたしが想像するのは江戸時代だが)泊まるところがないひとり旅の男が村の小さな社の中で一夜を明かす、っていうシーンは時代劇で見たことがある気がするから、そういうこともできた時代だったのだろう。 だが「彩時記」の記事最後にこんな話も出てくる。 さて、唖蝉坊が住んでいたころの竹次郎稲荷に、菱田タカという女性が住んでいたという話もある。この「オタカさん」は、人生相談や商品相場の予想を行い、当たるというので大勢の人たちが集まり稲荷も盛んになったという(奥村初男談)。しかし、残念なことに、このオタカさんと唖蝉坊の関係は定かではない。(「彩時記」) もともと竹次郎稲荷に先に住み着いていたのはオタカさんだったのか。それにしても稲荷ができる大正8年前はその場所は何で、オタカさんはどこで商売していたのか。唖蝉坊はどうして桐生に、それも竹次郎稲荷に住み着くことになったのか(このへんは「唖蝉坊流生記」などですこしは知ることができるかもしれない)。そして唖蝉坊とオタカさんはどういう関係だったのか。唖蝉坊が岐阜に移ったのちオタカさんはどうしたのか。 添田唖蝉坊のことを詳しく調べているわけでもないから人となりもよくはわからないが(唖蝉坊の声は音源として残ってないのだろうか。桃中軒雲右衛門の肉声はYouTubeで聞けるのだが)、どうも遠い人と感じないのはどうしてだろう。半年のあいだ毎週金曜日に霞が関界隈で原発反対を叫んでた身にとってはなおさら。だがそんなことどもを想像するには、この石碑はあまりに小さすぎる。 2014.12.04 追記。 1.wikipediaの添田唖蝉坊の項目を見てみたのだけれど、1910年に唖蝉坊の妻・タケさんが亡くなって以降のことは、下谷山伏町のいろは長屋のエピソードだけが具体的であとは各地を放浪、という程度にしか記述がない。桐生でのエピソードは、そのwikipediaの欠落を補うものということができる。 2.唖蝉坊の出生地・神奈川県大磯町の観光情報サイトにも、唖蝉坊の情報が掲載されている。 3.桐生市の常祇稲荷神社は、市街地、中通りをJR両毛線のガードを越えて錦桜橋方向へ、向かって左側、モリムラ珈琲店の手前の路地を入り200メートルくらい進んだ右手にあります。また竹次郎稲荷の碑は、拝殿正面の参道沿いにあります。 JR桐生駅には電動を含む貸し自転車のある観光案内所があり、常祇稲荷神社もマークされているガイドマップをくれたり、食べ物屋さんを含めた観光情報などを懇切丁寧に教えてくれます。また、貸し自転車の拠点は桐生市内に何ヵ所かあるみたいですが、私はJR桐生駅のものしか利用したことがなく他のことはわかりません。 4.金山竹次郎稲荷が取り壊される直前くらいにはもとの社だった頃の写真を見てみたい、という思いがあるのだけれど、そんなに昔の話というわけではないし、(話が本当だとすると)美術館が絡んでいることだし、どこかにないものだろうか。あるいは桐生の郷土史研究者で金山竹次郎稲荷の由緒や様子について調べている方もいらっしゃるのだろうと思うのだけれど。
by fumi2324
| 2014-12-03 18:59
| 雑文
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