![]() 三社祭がいよいよ来週末。正直言うと、私は三社祭じたいにはそれほど思い入れはないのだけれど、それでもうちの神輿グループにとっては毎年シーズン最初の神輿だし、去年は自粛で中止になっちゃったし、待ちに待った、待ちに待たされたという気持ちが私にも妙にあって、例年になくすこしわくわくしてる。いつでもOK、エネルギー充填完了、みたいな。 ま、わくわくしてるって言っても、お神輿の出る金曜から日曜の間の、夕方だけちょこっと担ぐだけの金曜日しか私は行かないのだし(しかもホントに行けるかどうかまだすこし微妙な上に腰が微妙に痛い)、休憩のたびに酒じゃなく水が飲みたいんじゃっ!とか言いながら缶ビールや缶チューハイを飲んで夕暮れのなかをふらふら神輿の後をくっついて歩く、それがいいのだ。 参加しながら神輿見物、神輿で賑わう街見物をしつつ、とりあえずカミサマの手前っていうのと仲間に後であーだこーだ言われないためのアリバイ作りとして、とりあえず一回ぐらいは肩入れとく。コレだ。…いい加減な参加者でごめんなさい(汗)。 だいたい、ダボシャツに股引き、お祭り足袋を装着した時点で、私の楽しみは三分の一は完了してる(最初のお酒のひと口めで半分完了、ただしお神酒除く)。 なんていっても好きなのは、足袋でアスファルトの上を歩く、その足の裏の感触。うちの仲間の中には、疲れないとか言って裏がスニーカー並みにクッションが入ってる足袋を履いてる男子とか、指がついた靴下をして足袋を履く女子もいるけど、私は断然ノーマル足袋に素足派。この感触がたまらない。足袋を履いて足の裏の感触を確認して、お巡りさんの交通規制に守られながら普段はクルマが行き交う道路のど真ん中を神輿とともに悠々と歩く。そういうのは昼間より夕方が楽しい。日焼けの心配もないしネ。 このへんの楽しみ方のポイント、うちの神輿仲間男子と違うのは当たり前にしても(やっぱり男子はキホンテキに担いで戦力になってナンボ)、たぶん他の女子たちともまるきり違う。「えーっ、どうして!?」って言われても、こっちこそ「えーっ」なのだ。私は私で、うちの神輿仲間女子たちがなんでそこまで神輿が好きなのか、まるっきりわからない。 (最初の頃は神輿グッズ(木札、手ぬぐいetc)好きだったんだけどそれもなんだか卒業しちゃったし。) 私の楽しみ方をわかってくれるのは、うちの神輿仲間のうちでも、なんだかんだ言って長老ぐらいのものなのかも(いや、あの酔っ払いにらわかんないか)。 今年もこうしてまた参加できました。知ってる人にも笑顔で会えました。不況や放射能でたいへんだけど街は今年もこうして存在しています。とりあえずカミサマありがとう。来年までがんばるからヨロシクたのんます。 そういうことなのだ。 *一度、三社祭の宮出しを見てみたいんだけどなぁ…。 ![]() なんて言うのかこう、「うわあ、なつかしい~」っていう言葉を発する時の、しかも友だちとかととりあえずその字ヅラ上の「なつかしい」っていう何かを共有できているらしい時の、その温度差って、なんだか時々すこしもやもやと気になる。 べつにその「なつかしい」っていう言葉を、ただ対面上その場かぎりで友だちと調子を合わせるための方便として使ってるわけでは決してないし、私が「なつかしい」っていう言葉を発する時にはその「なつかしい」に嘘いつわりはなくて「なつかしい」という言葉にきちんと責任を負っているのだけど、そもそもその「なつかしい」っていったい何なんだろう。 うまく言えないけど、ひとつには、その「なつかしい」という気持ちを引き出した対象、いやその自分の記憶の中のそのなつかしさ、それに対する肯定感の度合いが違うんじゃないかな、とか。 私はいくらなつかしいからと言って自分のそのなつかしさを全肯定はしてない。全肯定できるなつかしさなんて、私の中にはひとつもない気がする。 なんでこんなことを考えちゃったかと言うと、近所にやたら懐メロばっかり流す商店街があって、そりゃ商店街のイメージとかお客さんを引きつけるための戦略なんだからどうでもいいことなんだけど、その懐メロを商店街を歩きながら聴いてなんだか心地良いと思える人って、考えてみたら私にはよくわからないなぁ、と。 たとえば懐メロもそうだろうけど、自分がいちばん多感な時期にたくさん耳に入ってきて、自分の個人的な記憶と不可分に結び付いちゃった流行歌とか音楽。 もちろんそういうものは私の中にもあるけれど、それは決して全肯定するものでもなければいつでも退避できる自分を温かく迎えてくれる場所でもなくて、どうしようもなく自分のこころの中に残っちゃったもの、生きて塗り替えていくべきもの、次から次から更新して上書きしていかなければ嘘になっちゃうもの、そこを基準にどれだけ遠くへ行けるかという、それこそが大事な指標、私の中ではそんな感じで。 もしかしたら、他人から見てどんなにチープでも、少なくとも自分だけはいつでも全肯定できるなつかしさをこころの中に持つことって、生きる上で大切なのかも。 ![]() 私はことロックにかんして、何かの大きな流行とか流れにリアルタイムで乗っかれたためしが殆どない。いつも「うわあこれ大好き」って思えた時にはもうそれが5年とか10年とか20年前とかに過ぎ去っていた過去の遺物みたいなものになっていて、中には、たまたまそれが普遍的な何かのように評価されてロック史に定着していたものがあったり、っていうだけで、これって要するに私のアンテナの精度というか音楽センスの何かしら根本的な欠落みたいなものなのかもしれない。 ま、それは別に卑下して言ってるわけではなくて、私の大切なキャラクタみたいなものの為せるワザなんだろうと思ってるのだけど。 で、音楽の話とはちょっと違うのだけれど、私はサイケデリックとかフラワームーヴメントとかのあのぶよぶよとしてぐにゃりとしたロゴが大好物。それはそういった時代のというかそういうロゴと符合する音楽が好きかどうかということとはあまり関係なく。 (あ。今気がついたのだけれど、シュールレアリスムが気になるのは、もしかしたらその流れを逆に辿っているということなのかも。) ああいうロゴやコラージュの現在的な?発展型ってどんなものなのかな、とかぼんやり考えてみたり。 ふと「彩家」っていうのを思い付いた。サイケ。 ![]() 将棋で思い出したこと。 中学一年のころ、私はアマチュア無線のいちばん簡単なヤツの免許を取ったのだけれど、それは国家試験ではなくて講習会だった。地元の水産高校にたしか無線科というのがあって、そのせいなんだと思うけど、夏休み、その水産高校でアマ無線の講習会があったわけ。無線工学と無線法規の講習をあわせて2週間ぐらい受講して最後に記述式の試験があり(ちなみに国家試験は択一式)、それで合格だと免許が貰える仕組み。 中学校の教室の倍以上ある広い教室に満員だったのだけれど、参加者最年少は小6の男の子で、私はその次。まわりは年上、男性ばかりそれも殆どが大人で、お昼休み、いろんな話をしたりして構ってもらったり、バスで通ってた私にクルマで送ってあげると声をかけてくれたり、すごく良くしてもらってた。 私が覚えてるのはお昼休みに一度、大人と将棋をやったこと。結局負かされたんだけど、受講者がたくさん集まってきて、ああでもないこうでもない、と、妙に周囲が熱くなって私に加勢してくれてた。負けた私にみんな「強いね」とか「いい将棋だった」みたいなことを言ってくれたっけ。もちろん強いわけはないのだけれど、とっても嬉しかった。 よくよく考えてみたら、きっとそのぐらいの頃までしか将棋やってなかった。よっぽど特別に好きにでもならなきゃ、そんなもんだよね、普通。怒涛の思春期はそれどころではない。 バーで会う棋士さんに教えてもらう時は銀飛車角桂香落ちだけど(笑)、それでもすごく楽しい。せめて飛車角落ちぐらいで(もちろん真剣勝負とは言わないけど)教えて貰える日が来ればなあ。 *アマ無線は結局、免許を取ってしまったら興味がまるきりなくなってしまって、それきり。ペーパードライバーみたいなものか。つい3、4年前に思い立って更新するまで(免許「証」の定期更新の必要はないから)、私の免許証には中学一年の頃の写真がずっと貼ってあった。 ![]() ![]() とある公園の隅っこ、フェンスぎわに、今年のはじめころ、いつできたのかはわからないけれど気がついたらネコハウスが誕生していた。 たぶん魚やなんかを氷水を入れて冷やして運ぶための大きめの発砲スチロールの箱なんだろうけど、それを入り口と窓のようにくり抜いて、黄色いビニールテープで縁をつけて赤いチェックのシートを被せて、中には銀色の保温シートの上に毛布を切ったののようなものが敷かれている。 いちばん最初見たときはたしか雨の日で、白やうす茶の野良ネコが3匹入っていた。 近所の子どもがありあわせのもので作ったには違いないのだろうけど、ネコハウスのキッチュでキュートな色づかいとまわりの草や花とのとり合わせがなんだかステキで、そこを通るたびについつい気になってしまう(道路から公園が少し高く作られていて、ネコハウスがちょうど私の目線ぐらいにあるのでなおさらかもしれない)。 中にネコがいることも滅多にないのだけれど、ごくたまにいたりすると、覗く私に向かって「なに見てんだコラ」って感じで睨んでる。 (どうも、睨む気の強いネコと、ハウスの中ではいつも眠ってるネコとがいるみたい。3人(3匹)の間柄は不明。)
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